「もう駄目です…」
普段は笑顔のTさんが、パソコン画面の向こう側で頭を垂れ、か細い声で言います。
「田中さん、テニスを辞めようと思います。激務に続き、親の介護もすることになって…そのための引っ越しも終えました。テニスを行なう環境もなくなり、これではとても上達は無理です。」
「えっ? そっ、それは大変ですね…」突然のことで、私はしどろもどろ。声を絞り出すのが精一杯です。
Tさんとのお付き合いは、すでに10年以上。背丈は165cmほどで、中肉中背。寡黙で、いつも微笑みと優しさを忘れない。そんな素敵で、“紳士中の紳士”がTさんです。(私が主宰するウィ―クエンドプレーヤーテニス上達機関のゴールド会員さんです。)
仕事は、オペレーションシステムの開発会社に勤務。部下を100人以上抱える部署のトップを務めます。そして、その頭脳明晰さゆえ、優しい口調ながらもテニスを鋭く分析。私が、“タジタジ”になることも少なくありません。
さらには、時には奥様と一緒に、私が主宰する健康関連のセミナーにも出席。「テニスを続ける限り、田中さんとお付き合いを続けます」と、強固な信頼を寄せてくれています。
そんなTさんですから、「もう駄目です…」なんて言葉は想定外。「よほど大変な状況なのだろう…」と、鈍い私でも感じました。そして、
「Tさんからの連絡が途絶えます…」
毎月1回続けていた、パソコン映像レッスンも中断。顔を見ることがなくなり、声も聞こえない。何とも淋しい日々が始まります。
実は、「テニスを辞める」とTさんが言ったのは、これが最初ではありません。過去に、人事異動、業績悪化に伴う仕事の激増で、「田中さん、残念ですが…」と、告げられたことがあるのです。
結果的には、「一時離脱後、復帰します」と言われ、そのときはお付き合いが途切れることはありませんでした。ただ…「今回は違うぞ。親御さんの介護となると話しは別だ」と、厳しい現実を受け入れる覚悟を持ったのです。
Tさんからの連絡が途絶え、約半年たった11月中旬。忘れもしない、木枯らしが吹いた日の翌朝、Tさんから1本のメールが届きます。急いで開封すると…「お話があります。時間取れますか?」と、短い文面。
“ドクン”と、心臓が一度なりました。そして、「とうとう、この時が来たか…」と、試験の合否を知らされる前の心境となったのです。
それでも私は、「大丈夫です! 時間取れます。久しぶりにお話できることを楽しみにしています。」と気丈に返信。その後は、“キィッ~”と耳ざわりな音がする事務所の古びたパイプ椅子に背中を押し付け、「Tさんはどんな心境だろう?」と、思いを馳せます。
その日は、最高気温が11度。12月中旬の寒さとなり、“ブルブル”と少し震える日となります。Tさんとの映像電話は21:00開始。暖房を22度に設定し、5分前にイスに座ると、机の左奥にある秒針付き時計に視線は釘付けです。
そして、短い針が9、長い針が12を指したとき、ついにパソコン画面の中からTさんが姿を現わします。「明るく振る舞おう!」と決意していた私は、「こんばんは、お久しぶりです。」と、いつものように挨拶。Tさんも、「本当にお久しぶりです。」と言い終わると…
「えぇ~、今日はご報告があります。私にとってはうれしい報告です。田中さん、会員の更新をお願いします。テニスを続けられることになりました!」と、今までにない最高の笑顔を見せながら、明るく弾む声で言うのです。
「えっ? ほっ、本当ですかぁ!」私も即座に反応。目頭は自然と熱くなり、胸が“キュン”と縮みます。ただ、Tさんの顔を“マジマジ”と見ると、以前に比べ少し頬がこけた様子。「大変だったんだろうなぁ…」と想像し、「無理しないでくださいよTさん。」と、私は気持ちを言葉に乗せて返します。
それを受けたTさん。今一度、こちらを真っ直ぐに見直すと、
「はい、大丈夫です。ここ数ヶ月、物凄く真剣に悩みました。人生で、最高に悩んだかもしれません。そして、仮にテニスができなくても田中さんとの“縁切れ”は嫌だと思い、決意を固めました!」と、テニスが満足にできない中での会員継続を明かしたのです。